三代歌川広重

三代歌川広重

天保13年(1842)生、明治27年(1894)没
初代歌川広重に弟子入りし、広重の養女に婿入りして後を継いだ。
明治初期の、怒涛の如く押し寄せる文明開化の波を、蒸気機関車、蒸気船、洋風建築、散切り頭の民衆などの形で積極的に描いていった。中でも、三代広重が描く、明治5年に新橋横浜間で開通した鉄道の錦絵は、瞬く間に人々の間に広まった。
三代広重は、輸入アニリン紅という鮮やかな赤を多用し、その絵は赤絵とも呼ばれ、いくぶん騒々しさも感じさせたが、かえって、当時の落ち着きのない世相を反映していた。
人々は西欧文化を取り入れた文明開化にも強い好奇心を抱いた。
三代広重が描く蒸気機関車、銀座レンガ街、築地ホテル館、博覧会、馬車と人力車、国会の様子などは、ニュースとなり、東京土産として全国に持ち帰られた。