豊原国周

豊原国周

天保6年(1835)生、明治33年(1900)没
国周は当初、豊原周信に弟子入りし、その後、三代歌川豊国に弟子入りした。
明治初期、文明開化の波が押し寄せていたが、国周は、頑なに江戸風を守って役者絵を中心に、描き続けた。
月岡芳年、小林清親とともに明治の三大浮世絵師に数えられる。
はじめは押絵羽子板を描いていたが、三代豊国に入門してからは、役者絵、美人画、歴史絵、源氏絵などを制作した。
大首絵の国周としても知られ、役者絵の代表的存在でもあり、「明治の写楽」とも呼ばれた。
破天荒な性格で、生涯に転居は117回、妻も40人以上変えたとも言われる。
酒と遊びが大好きで、宵越しの金を持たず、それでも困っている人がいると助けずにはいられなかった。来客のものも拝借してしまうため、訪問客は、何も持たないようにしていたという。